行政書士として日々業務にあたっていると、帰化申請に関する相談を受ける機会が年々増えています。特に、近年は中国や韓国に加えて、バングラデシュやネパール、ベトナムといった南アジア・東南アジア諸国からの帰化希望者が目立つようになりました。
この動き自体は、国際化が進む時代の流れとして自然なことかもしれません。しかし、現場で帰化手続きをサポートしている立場から見ると、「果たしてこのままで良いのか」と疑問を抱く場面が少なくありません。
日本語をほとんど話せないまま「日本人」になる人たち
帰化申請者の多くは、いわゆるブルーカラーの仕事に従事している方々です。建設、製造、介護、清掃など、いわば日本社会を支える現場労働の担い手といってよいでしょう。
ただし、そうした職場では、日本語を流暢に話せなくても仕事が回ることが多いのが現実です。結果として、「日常会話レベルにも達していない状態で帰化を申請する外国人」が増えています。
特に印象的なのは「家族で帰化」するケースです。夫が日本で長年働き、日本語もある程度話せるため、家族全員で帰化するという流れです。子どもたちは学校に通い、自然と日本語を身につけていくことができます。しかし、問題は妻の方です。
多くの家庭では、妻がほとんど日本語を話せないまま帰化しているのです。あいさつ程度の「こんにちは」「ありがとう」は言えても、役所の手続きや学校とのやり取りはまったく理解できない――そんなケースが実際にあります。
母語コミュニティの強さが「日本語離れ」を助長
なぜ日本語が上達しないのか。理由の一つは、母国語コミュニティの強さにあります。
たとえばムスリム系の家庭では、宗教的背景もあり、生活の多くを同国出身者のコミュニティの中で完結させています。買い物、教育、子育て、冠婚葬祭――すべてが母語で成り立つ環境が整っているのです。
つまり、日本語を使う必要がないのです。
「日常生活で困らない」「母国語だけで生きていける」――この状態で帰化を許可してしまうと、形式上は「日本人」でも、実質的には母国社会の中で暮らし続けることになります。

帰化審査の目的が形骸化していないか
帰化の本来の目的は、「国籍を変える」ことだけではありません。
国籍を変えるということは、文化、価値観、社会的責任を新しい国の一員として受け入れるという意味でもあります。
つまり、日本語能力は単なる形式的な条件ではなく、「日本社会に溶け込む意思と能力」を測る最も基本的な指標であるべきです。
ところが現実には、「家族全員が同時に帰化申請する場合は、世帯主(夫)の日本語能力を中心に判断しているのではないか」と感じる場面もあります。妻の日本語力がほとんど確認されないまま、家族全員が帰化を許可されるケースも少なくないのです。
これでは、「日本語を話せない日本人」が増えていくのも当然の結果といえるでしょう。
国籍とは“血統”か、“意思”か
ここで一度立ち止まって考える必要があります。
「国籍を与える」とは何を意味するのか。国籍とは、単なる行政上の記号ではなく、文化的・社会的な一体感の象徴でもあります。
しかし、言葉という基盤がなければ、その一体感を共有することは不可能です。
アメリカでは「日系アメリカ人」や「韓国系アメリカ人」といった呼び方が定着しています。これは、国籍を持ちながらも、出自や文化的背景を明確にしている表現です。
一方の日本では、「帰化すれば日本人」という極めて単純な扱いになっています。もちろん法的には正しいのですが、文化的な同化や言語的な統合が伴わないままの帰化が増えれば、“日本人”という概念そのものが曖昧になる危険性があります。
審査の見直しが必要ではないか
帰化のハードルを極端に上げる必要はありません。しかし、最低限の「日本語理解力」や「日本社会との関わり方」を確認する仕組みは、より厳格に設けるべきです。
たとえば以下のような改善が考えられます。
- 家族単位ではなく、申請者個人ごとに日本語面接を実施する
- 配偶者の日本語能力についても一定の基準を設ける
- 地域社会や学校での参加状況など、実際の「同化度」を重視する
帰化は一時的な制度ではなく、永続的な「国籍付与」です。いったん認められれば、その人は生涯「日本人」として扱われます。だからこそ、形式的な書類審査だけではなく、生活実態や社会的関与をしっかり見極めることが重要なのです。

「多文化共生」と「無秩序な多国籍化」は違う
一部では、「多文化共生社会」という言葉が美しく響きます。しかし、共生とは“互いに理解し合うこと”であり、“お互いの文化を温存しながらバラバラに暮らすこと”ではありません。
言葉が通じず、価値観の共有もできないまま国籍だけを与えることは、「共生」ではなく「分断」を生む結果にもなりかねません。
最後に――国の未来を左右するのは「国籍の重み」
帰化の増加そのものを否定するつもりはありません。日本を選び、日本で働き、納税し、子どもを育てている外国人が多くいるのは事実であり、彼らの存在は日本社会にとって貴重です。
しかし、国籍とは“日本の一員になる”という重みのある選択である以上、その基準や審査が形骸化してはなりません。
日本語を話せないまま帰化する人が増える――その現象の先には、「日本人とは何か」という根源的な問いが待っています。
国籍とは、法の上の資格だけでなく、文化と責任を共有する約束でもあるのです。
帰化の審査を見直すことは、単に外国人政策の問題ではなく、日本という国のあり方そのものを見つめ直すことにつながるのではないでしょうか。







